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Sumire

Author:Sumire
札幌生まれ札幌育ちの道産子。道内公立高校を卒業し、2010年1月渡米、スペイン語を専攻し、2013年12月卒業。
趣味は外国語の勉強とタップダンスと行き当たりばっ旅。在学中に4つの外国語を学び、アメリカを拠点に6カ国で生活しました。座右の銘は「思い立ったが吉日」今日も気ままに生きてます。


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韓国という国、外国を理解するということ

最近、というか昨日、韓国について一冊の本を読みました。
半年ほど前にタイトルだけ見て古本屋(札幌の)で買って、手をつけないまま実家の本棚に置いてあった文庫本。
今度こそ読もうと思って韓国に持って来たのでした。

その名も、『韓国は一個の哲学である―「理」と「気」の社会システム』 小倉 紀蔵著(講談社現代新書)



今日はその本を読んで思ったことを書きます。本の内容の要約ではありませんので悪しからず。

***

「韓国人は○○だ」「韓国社会はxxだ」
一番身近で交流も多い、実体のある外国だからこそ、体験に基づいた、いかにももっともらしい "韓国論" を広げる人がいる。そしてさらに、日本と韓国という二つの国を比較してコメントをする。どちらの社会がより道徳的か、発展しているか、歴史を大切にするか、優れているか、礼儀正しいか、etc、etc。韓国を絶対肯定する人もいれば、露骨に嫌悪感を表す人もいる。多くが「同じ東アジア」に属す日本と似た国だという楽観に基づいて、または、日本とは全く次元が違い話が通じるわけがないのだという悲観に基づいて、評価を下す。

韓国人にしても同様。社会全般に広まっている日本のイメージの多くは批判的・否定的なもので、日本を劣った国として見る傾向がある。

でもその判断は、その国の道徳観、世界観に則って導き出されたものであることを認識しなければならない。日本人は日本で育まれた道徳観、世界観に従って韓国(人)を評価する。韓国人は「韓国社会の思想的な『しくみ』」の中で日本(人)を評価する。このとき、二人の対話がかみ合うはずがないのだ。対等になれるはずがないのだ。

日本の道徳観と言っても、それを定義するのは難しい。今、自分の口から出ている言葉が、どのようにその道徳観に形作られているかを客観的に認識するのはもっと難しい。その言葉が実は偏見に満ちていることに人は気づかない。「韓国は」「韓国人は」と一般化する瞬間、大きなリスクを冒している。

日本に関して韓国人の発する言葉や韓国社会の発するメッセージを、韓国の哲学を理解する努力なくしては理解し得ない。賛成や反対はできる、傷つくこともできるし喜ぶこともできる、けれど理解はできない。「気」が合ったり、「気」が許せることと、相互「理」解できることの違いがここにある。

もっと言えば、日本というテーマに限らず、どんなテーマであっても、韓国の道徳観を理解せずに韓国人の言葉や行動を理解することはできない。ましてや韓国語は到底理解できない。日本語に翻訳して、日本の定義で、日本社会の思想のしくみの枠内でわかったつもりになるだけで、その言葉や行動の核心からは遠ざかる一方だ。その矛盾はテーマが複雑に、繊細になればなるほど浮き彫りになる。

きっとそれは個人レベルだけでなく国レベルでも同じで、韓国政府が取る態度や行動、政策も、韓国という哲学を理解することなしには理解できない。


この本は、はっきり言って、非常に読みにくい。韓国や儒教に関して初めて読むのであれば、なおさら。
たびたび出てくる、日本を批判するようなコメントに気分も害される。(それを上回る韓国の痛烈な批判が最後に待っているのだけれど。)
けれども最終章は日韓関係(個人レベルでも国レベルでも)の確執の核心をつき、本当におもしろい。そして痛い。少なからず真実をついているからだと思う。
それまでの200ページは、最後の20ページを理解するためにあったようなもの。それでも読む価値があると思う。

この一冊で韓国が理解できたとは到底思わない。けれど、韓国社会と韓国人について、今まで目撃したこと、今経験していることを解釈する一つの方法を手に入れた気がする。
今までと違った(そしてたぶん、より正確な)視点を手に入れ、自分の考えや言動を顧みるきっかけにもなった。

「韓国」の部分を、「アメリカ」でも「チリ」でも「インド」でも、どの国にも置き換えて考えることができる。

外国語を学び、外国について発信する私が、心に常に留めておかなければいけないこと。


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カルチャーショックとホームシック 入門編

チリへ発つのが1週間後に迫ってきました。
内心かなりビビってる私。
そんな気持ちを察してか、お世話になっている教授から
「外国では、『悩むより慣れろ』ですよ」
とのお言葉をいただきました。

何がそんなに不安って、やっぱり住み慣れた日本とも北米とも違う、今までで一番「異質」な世界に飛び込むのが怖いのです。地球の裏側だし。(そしてそんな場所で初めてのフィールドリサーチをやり遂げられるのか、という不安も。。。)

でもよく考えてみれば、カナダやアメリカだって「地球のあっち側」だし、その場所を第二の故郷と感じるまではそれなりの時間がかかり、それまでは十分に「異質」だったわけです。
人は自分が知らないものを恐れる。
私はチリのことを十分に知っているという自信がないから恐いのでしょう。
治安のことも、食べ物も、天候も、マナーも、スペイン語も…(これを書く暇があったら勉強しろって話ですね。)

前置きが長くなりましたが、そういうわけで今日はカルチャーショック入門編(?)。
カルチャーショックと一口で言ってもその形は様々。
ポジティブな経験もあればネガティブな経験もある。ただの驚きで済むこともあれば、感嘆することも、嫌悪感をともなうことも、価値観が大きく揺すぶられることも。

人間の営みなんてきっとどこも根本的に変わらないと思う一方、国や社会によって「常識」ってものが全然違うことに気づく。
(それで思い出したアインシュタインの有名な言葉→「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」)

外国に行ったばかりの頃感じたカルチャーショックの中で、たぶん一番衝撃が大きかったことを3つ挙げてみます。


☆ロンドンで差し伸べられた手☆

初めての外国・イギリスに降り立った日のこと。重いスーツケースを引きずって空港からホテルの近くまで地下鉄で移動し、駅に着いて地上に出る階段を上がろうとした時に、どこからともなく青年が現れ私のスーツケースを持って階段の上まで運んでくれました。一緒にいた父は私がスーツケースと苦戦していることにも気づかず一人でさっさと階段を上がってしまったというのに!!

後ろの人が来るまでドアを開けて待っていてくれたり、重い荷物を持ってくれたり。日本でもそういう優しい方はいますが、そういうことができる人って日本では「優しい」とプラス評価。イギリスやカナダ、アメリカ、ラテンアメリカではできて「当たり前」なので、できないとマイナス評価。

周りの人を思いやる行動が身に付いていて、自然とできるのって素敵だなと思いました。


☆メキシカンガールの抱擁☆
初めてのホームステイ in トロント。私がステイしていた家に、ある日メキシコから18歳くらいの女の子がやってきました(ひとつのホストファミリーに2人以上の生徒が同時にステイすることはめずらしいことではありません)。
リビングにいた私を目指してだだだっと駆け寄ってきて、あっけにとられている私の反応をよそにハグ&それで終わらずのけぞって避けようとする私の頬にキス。

今でこそハグ大好きですが、当時はまだハグにも慣れていませんでした。過激な挨拶にあまりにショックを受けたので、前後の出来事が記憶にありませんが、とりあえずホストママとその子が私の狼狽ぶりに爆笑していたのを覚えています。とほほ。

挨拶のマナーの違いって本当におもしろいですよね。それに加えて、身体的な距離に対する感覚の違いとでも言いますか、どこから「近すぎる」と感じるかって人それぞれだし、文化それぞれ。
何かものすごい至近距離で話されると、本人にはそれが「普通」でも、日本人な私はさりげなーく距離をとります。ごめんね。


☆"He likes boys"とゲイパレード☆

アルバータに留学中、仲が良かった男友達がほとんど全員ゲイで、そのうちの一人を指して "He likes boys. 知ってた?" と聞かれたことがありました。
知ってたので驚きませんでしたが、ゲイとレズビアンの割合の多さと、そのオープンさに少なからずショックを受けました。

「オープン」というのはつまり、親や友達も知っているし、堂々とデートするし、街中でキスするのを目撃するのもめずらしいことではなく、同性の相手をナンパしている光景もめずらしくない。
そして街角にはゲイの象徴・レインボーフラッグがなびく。
年に一度は各都市で大々的なゲイパレード(プライドパレード)が行われる。トロントとバンクーバーで三度見に行っていますが、すごい迫力。

偏見や差別が全くない訳ではありません。むしろ、同性愛に反対する人は堂々と批判するし、同性愛者やそれをサポートする人たちは堂々と権利を主張するのが、日本と少し違うところでしょうか。

私の本拠地(?)マサチューセッツも同性婚が認められている数少ない州の一つで、通っている大学も女子大のためレズビアンはめずらしくありません。セクシュアリティを生まれ持ったものと考える人もいれば、自分の意志で選択するものだと考える人もいる(そして好奇心か必要性に駆られて女の子とデートし始める。これはここだけの話)。


理解したいから、拒絶せず、まず受け入れようと試みる。けれど受け入れられないこともある。
あなたならどこで線を引きますか?

続く…。

運か努力か。

勉強法の話が続いたので今日は違う話題を。

英語と日本語の表現の違いって挙げたらキリがないですが、何か見つける度に考え方の違いが垣間見えておもしろいです。

例えば「がんばって」と "Good luck"。

試験を受ける友達に。
外回りに出る同僚に。
学校に向かう子供たちに。
何かにつけて日本人が好んで使う言葉と言えば、「がんばってね!」。

同じ状況でも、英語では "Good luck!"(幸運を祈るよ!)と言うことが圧倒的に多い気がします。
または、"Take it easy!"(まあ気楽にやれよ!)
やるだけやったのなら、後は「神のみぞ知る」ということでしょうか。

「がんばる」、つまり「力を出す」「ふんばる」というニュアンスに近い "Hang in there!" "Break a leg!" "Do your best!" などの表現は、もちろん間違ってはいないのですが、私はあまり耳にしたことがありません。

***

運で試験に受かるか!! と突っ込みたくなる時も多々あるのですが、
極端に言えば「全ては努力次第」と「全ては運次第」に分かれる表現・価値観の違いはどこから生まれるんでしょうか。

「集団主義と個人主義」の違いを論じる時に持ち出されることの多い、【稲作文化】と【稲作以外の農耕・牧畜文化】の違いが、「運と努力」についての考え方にも影響しているのではないかと私は思います。

大雑把に言って、日本や中国・韓国で伝統的に行われてきた稲作と、西ヨーロッパやアメリカの小麦やとうもろこしの栽培では、必要とされる土地の面積・労働時間と量・労働の複雑さや大変さなどが全く違います。(牧畜が全く違う文化を育むことは想像に難くないと思います。)

お米の栽培はとっても「手間がかかり」ます。そして、「手間をかけた分だけ」収穫の量が増え、質が高まる。別の言い方をすれば、「努力は報われ」「努力しない者は成功できない」のです。

一方で、小麦やとうもろこしの栽培は、春に種を蒔き、雨さえ降れば、秋に収穫が待っている。最低限やることをやっていれば、何とかなる。
労働量も少ない代わりに、努力と報酬の関係性も比較的弱いのです。

そんな2種類の農作の違いを考えると、古くから稲作を営んできた国民があくまでも勤労を重んじる一方で、その他の農耕・牧畜を営んできた国民が、「運任せ」とは言わないまでも、勉強や仕事と同じくらい息抜きと遊びをとても大事にするのは理解できる気がします。そんな、単純なものでもないかもしれませんが。

ちなみに、スペイン語やフランス語ではやっぱり、英語と同様、
"Buena suerte" "Bonne chance" (= Good luck) と言いますし、
韓国語では "힘내!"(がんばって)、"파이팅!" (英語の fighting から。「ファイト!」)と言うみたいです。
中国語(標準語)は "加油" と習った記憶がありますが、北部と南部では農耕の種類も違うので、もしかしたら北京語と広東語などで表現が違うのでしょうか。誰か知っている人がいたら教えてください。

***

言語と文化は密接に結びついているもの。
言葉の端々に垣間見える価値観の断片を掘り下げていくと、その根底に流れる歴史や文化についての意外な発見があったりします。大げさ?
外国語学習の醍醐味です☆


(参考:"Outliers - The Story of Success" by Malcolm Gladwell)
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